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第55回

ひとSTORY

ぺぺ伊藤

ぺぺ伊藤 ぺぺ伊藤

ギタリスト、ぺぺ伊藤。ブラジル音楽に傾倒し、ボサノバ、サンバスタイルのギターで奏でることも多い。自身のソロ活動以外にも、各国の様々なジャンルのミュージシャンからの信頼を集め、コラボやサポートも務める。数多くのステージで見かける彼の、知ってるようで知らない素顔をインタビュー。

音楽との接点

福岡市早良区生まれ。普通に音楽を楽しむ家庭で育つ。初めて触った楽器は、家族の誰かが弾いていた電源も入らないようなエレクトーン。中学時代には、拾ってきたであろう、弦が2~3本しかないギター(注:普通は6本)で遊ぶようになった。2~3年は切れた弦を張り替えることもせず弾いていた。やがて弦は1本になり、いろいろな指を使ってメロディーを探し、持ち方を変えたり、音を出す工夫をしながら遊び続けた。ある時、弦が6本あるギターを手に取ると、すんなり曲を弾きこなせた。「遊びの中で、耳がコードを覚えていた。ギターコードを練習したわけではなく、聞こえてくるメロディーを探す、1本の弦で音を探す行為を繰り返していただけ。それが結果的に良かったと思う。」とその日を振り返る。高校時代には、友人から3000円で譲り受けたフォークギター。その後、アルバイトをして、エレキギターを購入した。

幼少期は歌うことが好きだったが、恥ずかしがり屋で人見知りな性格。合唱でも、こっそりと自分が歌っていると気付かれないような声の出し方をして、「夕焼け小焼け」などを歌っていた。ただ音を出すこと、音を延ばすことが凄く気持ち良く、ワクワクしていた。幼少期のコーラスでの体験は、後々の音楽スタイルに息づくことになる。

幼少期の唱歌に始まり、学校で出会う音楽、普段の生活の中で流れ聞こえてくる「みんなのうた」「ポンキッキ」やTVで見るアニメソングなどを楽しく歌っていた。中学生になり2歳年上の姉の友人から、英ロックバンド“レッド・ツェッペリン“やオールドロックのCDを借りたことがきっかけで、初めて買ったCDは “レッド・ツェッペリン IV”。当時は、米ロックバンド“エアロスミス“、“ガンズ・アンド・ローゼズ“など、流行りのハードロックの楽曲を聴くロック少年だった。また、初めてのコンサートは、中学の時にひとりで行った国際センターでの“エアロスミス“。そして、高校時代に幼馴染や先輩とロックバンドを組み、西新の「ライブハウスJAJA」でステージデビューを果たした。その後も、カントリー系、ハードロック系、メタル系、ジャズなど、情報誌「シティ情報福岡」等から調べられる限りのライブ情報を得て、アルバイトをしてはライブに通いつめた。周りには上手いギタリストが沢山いて、同じことをやっても自分は敵わないと感じた。自分自身が音楽に救われた経験が沢山あり、ギターを追求するのではなく、音楽をもっと知りたい。自分がいいと思う音楽でもそうじゃない音楽も聴いてみて、どれだけ良いところが見つけられるか、上手だからではなく、この人だから良いんだとか、どこに意味や価値があるのかを知り、学べることに面白さを見出していった。

師匠との出会い

20歳の頃誘われて訪れたのが、親不孝通りにあったブラジル音楽のお店「ショーぺリア」。そこで多くのブラジル音楽のミュージシャンと出会い、次第に深みに嵌って行った。「ショーぺリア」は、ブラジル料理店だったが、きちんと演奏スケジュールが在り、日常的に誰かが演奏していて、チャージ料も完全フリーで、外国的な店だった。そのオーナーだった故本村清博氏を慕い、JAZZ系、ロック系、クラシック系、ジャンルを超えて、たくさんの有名なミュージシャンが集まる場所だった。

本村さんは、多くのミュージシャンにヒントを与えてくれる人で、どんなレベルの人にも、チャレンジする者には声をかけ続けてくれた。3年くらいの間、週のほとんどをショーぺリアで過ごし、気が付けば、エレキギターは弾かなくなり、アコースティックギターばかり弾くようになった。自分が目立って演奏するよりも誰かの音楽を補完することが、凄く楽しかった。そこにある空気をガラッと変えるわけでもなく、肯定し合えるようなものを、音として探して演奏している。いろいろなことを勉強する中で、カッコいいとかこれがやってみたい、という気になるが、もっとふわーっとしたものを探している。本村さんのおかげで、たくさんのミュージシャンに出会い助けられてきて今の自分が在る。

本村さんは、音楽に向き合う心構え、言葉にならないような大事なことを伝えようとしてくれ師匠のような存在だった。今使っているギターは、本村さんの形見。亡くなられた後に譲り受けたもの。奇跡のような、人のつながりのおかげで今があるという事をすごく感じる出来事の、ひとつの象徴のみんなのギター。今は自分がそのギターを預かっているが、このギターを必要とする人がいれば誰にでも使って欲しいと願っている。

演奏活動

音楽に対しては、20歳の頃から方向性をはっきり思い描いていた。24~28くらいまで、松本かつひろ氏とバンド “SO.”を組み、一緒に全国ツアーを行った。また、「ショーぺリア」卒業生のブラジリアン・ミュージック・シンガー鮫島直美氏から声をかけてもらい、ユニット“Brisa do Brasil(ブリーザ・ド・ブラジル)”を結成し、定期的な活動を現在も継続中。また、村上ポンタ秀一氏との出会い、ポンタさん、GUNさんとの音楽旅も忘れられない。ポンタさんから受け取ったもの、サウンドはもちろん、人、仕事との向き合い方、深い優しさ。

様々なミュージシャンとライブを行い、ブラジル音楽も研究を重ね、JAZZ系とも言えない、ブラジル系とも言えない、それぞれは自分にとっては本流ではないが、ジャンルの垣根を超えて共演している。多くの人と出会い、その人たちのおかげで今のぺぺ伊藤がある。相手が誰だろうと面白いと思う人と組むというのはずっと変わってない。自分自身がみんなに受け入れてもらってきたので、自分も相手の良いところを探すのが楽しい。感謝しかない。

自分を作っているもの

小児喘息で何回も死にかけたことがあり、母から「生きているだけでいいよ」と言われて育った。転校先でいじめにあい、不登校になったが、無理矢理学校へ行けと言われたことも否定されたと感じたこともなかった。怒られた記憶、ほめられた記憶、強制された記憶もない。人に寄り添う想いや寄り添い方は、優しく、一人の世界をちゃんと持っている母の影響がとても大きく息づいている。

新たな試み

ミュージシャンにとっても、音楽を楽しみにしている人々にとっても、大きな打撃を受けたのがコロナ渦だった。自分の好きなものを、自分そのものを、世の中から否定されているような感覚に陥った人も少なからずいたと思う。周囲を見渡すと、知り合いの子供が登校できなくなっていた。例えばコロナのこと、ワクチンのこと、政治や宗教のことなど、誰にも言えないタブーが増え、それらを誰にも話せず苦しんでいた。そんな姿を目の当たりにし、「どんな時でも声をかけ合うことをしていいし、遠慮なく、心伝え合うことができる」そんな想いを形にと、お守りのように作った生音宅配便チケット。CDを買ってくれた人の特典として付与される、交通費だけで指定された場所に出向き、演奏するというチケットである。この試みには当初、賛否両論があったが、お陰様で作品はとても好評で、生音宅配便チケットも、「いつ使おうかと楽しみにしている」と、沢山の方から声をかけられるようになる。

エピローグ

人や音楽との出会いが独創的なアイデアを生み、人と音楽を融合させ、多くの人々を魅了し続けているぺぺ伊藤さん。名前の由来は、幼馴染でギタリストの波多江崇行氏が小学校3年生の時に付けたあだ名。以降、「ぺぺ伊藤」として活動を継続。「名前に人生が寄ってきた」と、おおらかに笑う。肩肘を張らず、生きとし生けるすべてのものに自然体で真摯に向き合う姿勢、そして数々の経験の中で培ってきた信念。自分軸を保ち、出会った人々とお互いを認め合う関係作り。不安定な時代に生きる難しさを、感謝と優しさで包み込んでいく。歩みをとめず、新しいことにも挑戦し続け、ほとばしる彼の思いから生まれるメッセージと音楽は、これからも人々の心にそっと寄り添い、癒し、安らぎを与え続けることだろう。

文:YASUE UEDA (インタビュー:MARI OKUSU)