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第53回

ひとSTORY

門田剛典さん(イタリア6番地 (vo.&gt.))

門田剛典さん(イタリア6番地 (vo.&gt.)) 門田剛典さん(イタリア6番地 (vo.&gt.))

初CDから何曲もCMに起用。一度聴くと、心地良い歌声が耳にも心にも残るアコースティックユニット“イタリア6番地”。今回は“イタリア6番地”の門田剛典さんにインタビュー。

生い立ち

1988年福岡県飯塚市生まれ。中心地の街っ子として、大学生まで過ごす。六歳上の長姉と、三歳上の次姉との三人姉弟の末っ子。昔、姉達は何でも言う事を聞いてくれる程可愛がってくれて、やることなすこと姉達を真似ていたらしい。

音楽との関わり

小学生の頃から歌うのは好きだが、カラオケで歌う程度。しかしながら、カラオケの採点で高得点をはじき出し、周りから一目置かれる存在に 。中学時代から少しずつ「歌」に興味を持ち始め、ちゃんと「音楽」を聴きだしたのは二年生になった頃から。「うたいびと はね(後に“唄人羽”)」が好きで、同級生が弾くギターに合わせて歌い、少しずつ歌の楽しさを感じ始める。ある日、別の友人が家に遊びに来て、ギターを置いて帰った。コードを2つだけ習い、練習をしてみると、ギターを弾きながら歌うことが、思いの外楽しかった。ひとまずギターを返却し、他にもコードを教えてもらい、自分用のギターをインターネットで購入。歌い出したのは、きっと歌が上手かった次姉の影響があったのだと思う。その後、父が他界。姉達に比べると、自分はやりたいことを母からやらせてもらった。

サッカー

父の影響で、小学校に上がると同時に地元のクラブチームでサッカーを始めた。週5で練習に通い、ポジションはMF(ミッドフィルダー)の「ボランチ」。攻守にわたってプレイし、試合の中で大きな存在感を発揮するポジションを射止めた。県立嘉穂東高校入学。サッカー部ではクラブチームOBも多く、アットホームな環境の中、県の選抜メンバーにも選ばれる。練習が終わった後や休みの日はギターを弾いて歌い、母から「大学を卒業したら、何をしても良いよ!」と言われ、飯塚市内にある近畿大学にサッカー特待生として入学。

路上ライブ

話は前後するが、高校に入ってちょっと良いギターを買い直したことで、音楽にも力が入った。次姉の友人が既に路上ライブをしていたので、高1の終わり頃、その人に「路上」のノウハウを尋ねたり、ライブについて行くこともあった。当時、地元のバスセンターで歌うミュージシャンは結構いたので、その後1人で歌うようになる。「聴いてもらう」と言うより、音が出せる場所だったので練習も兼ねていた。知らない人の前で歌うのに最初は勇気が必要だったが、お客さんから褒めてもらうことも多かった。高校卒業間近に、初めてライブハウスに出演。この時の感動で「音楽やりたい!」と強く思うようになり、サッカーと音楽への情熱が初めて逆転した。学校へ行かない日もバスセンターで歌い、「朝5時まで歌って、家に帰って夕方まで寝て、また歌いに行く」のが当時のルーティーンだった。

大学時代

大学入学した年の5月20日は、憧れのギブソンのギターを買った日。バイトをして貯めたお金を持って、店まで友人について来てもらった。そのギターを手に入れることは、「音楽でプロになりたい」という気持ちが固まったことを意味した。その後もサッカーは続けたが、足どりは段々と重くなる一方だった。それに反して、ライブ活動にはどんどん力が入っていった。18歳の頃は飯塚市内でしかライブをやっていなかったし、それでも続けていればなんとかプロになれると漠然と考えていた。同じ頃、路上ライブを精力的にやっている同い年の福岡のミュージシャンと出会う 。それをきっかけに視野も広がり、福岡でもライブに出たり、オーディションへ出場することにした。初めて挑んだYAMAHA主催のオーディションと、その次に島村楽器主催のオーディションと、いずれも九州大会まで進んだが、なかなか全国大会への切符は手に入れられなかった。大学卒業後は福岡市内にある音楽塾ヴォイスへ入学。当初、飯塚から通っていたが、福岡へ移住しようと決意。バイトもやりながらの生活が始まった。

“イタリア6番地”結成

「末永てつや」 後に“イタリア6番地”の相方となる人物。彼とは、昔から縁があり、気が合う仲だった。高1の時、路上ライブについて教えてくれた次姉の友人であり、ソロ同志ではあったものの、一緒にライブハウスへ出演したり、思い出のギターを買いに行くのを付き合ってくれたり。二人で作ってみた曲で、ある大会に出場することになり、仮のユニット名を“イタリア6番地”にした。数多の候補の中から決めた名前で、これは、末永さんが高校時代の生徒手帳に書いていたもの。「これ良くない?」「カッコイイね!」で決まった。結果、最終の九州大会まで駒を進め、手応えを感じる。いつかまたデュオでやる機会があったら、「名前はまたこれで!」となり、それぞれソロ活動に戻った。その後、同時期に福岡へ移住し、毎日一緒に遊んだり、場所は別々ではあったものの、毎日天神で路上ライブを行う仲間でもあった。ある日、知り合いのパーティで二人で歌ったら、色んな方から「二人でやった方が良い」と大好評だったことも後押しし、2012年2月デュオを組むことを決定。その時は「2人で楽しいことやれたら良いな」というイメージだった。「じゃあ、名前は“イタリア6番地”で!」最初の数か月間は楽曲制作に費やし、「キャナルシティで歌いたいね!」とどちらからともなく言い出した。その後オーディションに受かり、キャナルシティで3ヵ月間歌えることに。経験を積んでいく過程で「2人でやれる」確信を持った

初CD・改名・CM起用・活動休止

エンジニア活動もする作曲家・編曲家のSHiNTAさん(alan、“LinQ”、ALLI他へ楽曲提供)から「せっかくだから形に残してみない?」ときっかけをもらい、CD作成。2013年3月に1stシングル“first contact”をリリース。あるきっかけがあり、ユニット名を“DREAM GATE“に改名。1stシングル収録の“SUNSET”“二人三脚“などの楽曲が“JR西日本”や“マリンハイドロテック”ほか数々のCMに起用。ライブの他、イベントやパーティのゲストに呼ばれたり、スケジュール的にかなり忙しくなってきた。段々と自分達がやりたかった音楽とかけ離れていってる気もしてきて、一回見つめ直そうと、2015年7月無期限活動休止を決めた。「お互いどうしたいか」「続けていくのか」「止まるのか」「2人共やめるのか」となり、今のままいくと面白くないから、お互い自分のスキルを見つめ直すという意味も込めて、自分はソロ活動をし、相方は楽曲提供やサポートなど別々の活動を開始。とは言え、その後もつかず離れず連絡は取り合っていた。

活動再開~2人の絆

「いつかはまた2人でやりたい!」と思っていた頃、ある日の近況報告会で、「もう一回自分達のペースでやりますか!」となり、2017年4月“イタリア6番地“に再改名し、活動を再開。以前との違いはより自分達の歌が好きになったことと、デュオとしてのバランスが良くなったこと。2018年6月島村楽器主催“アコパラ2018西日本大会“に出場し、グランプリを受賞。2018年9月再度エンジニアSHiNTAさんでミニアルバム“nature“を作成し、発売。“アコパラ2018西日本大会“のグランプリ曲“ヤドリギの雨““alright“も収録。

相方について

“イタリア6番地“は曲作りは2人で寄せ合って作成。「こういうイメージなんだけど」と曲の一部を聴かせると、「じゃあこんな感じ?」と阿吽の呼吸で曲が完成する。ソロ活動は勉強にはなったが、結局は「2人で活動したい」気持ちが根底にはあることがわかった。感覚的に言って、感覚的にわかってくれるのは“末永てつや“だなと思う。彼のソングライターとしての力を信じているし、インスピレーションに関しても頼ってもいるかもしれない。ソロだと6~80%しか自分の実力は出せなかったと思うが、2人だと120~200%出せるイメージ。2人の共同制作だと、一曲の仕上がりは他のユニットよりも時間はかかると思うが、その分良い物が出来ている自負がある。今も昔もお兄ちゃんのような存在でもあり、好きな声だし歌も上手いし。そして、今は良きライバルで、良き相方でもある。

これから

今までは受け身で周りの人が動いてくれて、進む道が出来ていた感じだが、これからは自分達で色んな活動をしていきたい。ワンマンライブをやったり、原点に戻って路上ライブをやってファンを増やしたり。とは言え、メジャーにも憧れるし、事務所に所属する流れに乗りたい気持ちもある。そこにいくまでは大変だろうけれど。何か自分達なりに面白いことができたらと思う。自分達の曲を聴いて、「良かったです!」と言われるよりも「耳が幸せでした!」と言われた方が嬉しい。そういう人を増やせるように頑張りたい。

インタビューを終えて

サッカーも歌も、好きと思うと一筋。生来一途な性格。“イタリア6番地“は、一途な想いと共に、2人の気持ち良いハーモニーとメロディを奏でながら、聴く人の心に深く深く響いていく。

文:MARI OKUSU 2021.1.8掲載
写真 右:門田剛典 左:末永てつや