白浜久さん(後編) Interview[ひとSTORY]| 福岡のライブ情報検索サイト 音ナビ隊♪ Fukuoka's Concert Informatinon Search Site

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第5回(後編)

ひとSTORY

白浜久さん(後編)

白浜久さん 白浜久さん

この時代の活躍は周知の事実。白浜さんは80年代はギターからシンセサイザーの時代に入ったと認識していたので、ARBをパンクからキーボードを大胆に取り入れた形態に変化させ、アルバムは結成以来一番の売上げを記録した。(RYO&HISASHIとして曲だけでなく詞にも携わる。)4年間の加入期間の内、スタジオアルバムを4枚、LIVEを2枚プロデュースし解散。

不思議な縁

田中一郎さんとの縁に始まり、デビューのきっかけ、石橋凌さんとの再会など、白浜さんの人生には用意されたような偶然がたびたび顔を出す。幾つかあるエピソードの内、1つだけここに紹介しよう。少年院を辞めた後、英語が出来た事から知合の紹介で来日したJAZZピアニストのベン・シドランの通訳についた事があった。ある時ベンと話していたら、長身の白人男性がお店に入って来た。その男性は当時かなり売れていたボズ・スキャッグスで、なんと20年以上ぶりに偶然ベンとボズが再会し号泣していた場面に白浜さんは同席した事もあったらしい。こんな話を幾つも聞いていると、今日の白浜さんの人生を形作るのに、一つずつの出来事がジグソーパズルの一片のように、どれが欠けても完成しない気がしてくる。

ARB以後〜最近

”レッドウォーリアーズ“のギター木暮武彦さんは何故かギタリストの白浜さんにベーシストとしてオファーをかけてきて、“サイコデリシャス”と言うバンドでベーシストとして3年間ほど一緒に活動。(レコーディングでもベースを弾く事がかなりあるらしい。)

2000年から現在に至るまではH.SHIRAHAMAプロジェクトの名で田中一郎さん(“甲斐バンド”)、斉藤光浩さん(“BOWWOW”)、西川貴博さんら多くのミュージシャンとLIVE活動等も行っている。

最近はライフワークとして、日本国内のアマチュアで良い曲を書いている人を、日本語のまま外国のコンペにプレゼンする作業をしている。アメリカは音楽のコンペは多く、審査にあたって年齢も聞かず、写真を要求する事もない。無名の普通の人の曲が多くの人の魂に触れる機会を作る事を希望しているし、白浜さん自身も優勝経験があり、白浜さんがサポートしたある方はアメリカのインディーズチャートをばく進した実績もある。(2011年アメリカで開催された28th MASC(Mid-Atlantic Song Contest)に於いて白浜さんの楽曲3曲のうち「Himawari (pray for Fukushima)」がInstrumental Categoryにて日本人初GOLD(最優秀賞)受賞。他の2曲も「Sakura」がInstrumental CategoryにてHonorable Mention 受賞。「Unknown soldier」はRock / Alternative CategoryにてHonorable Mention 受賞。※’09-’10もそれぞれHonorable Mention 受賞曲あり。)

またTV アニメ"輪るピンクドラム"ではトリプルHがエンディングテーマ等で“ARB”時代の白浜さんの作品をカバー。2012年アニメのサントラ売上1位に!

若いミュージシャンへ一言

アマチュア時代、LIVEへ来るお客さんは知らない人。顔見知りでも名前はわからないとか・・・最近複数のバンドでジョイントLIVEをして、チケットを友達に売ったりすると聞く事がある。友達に見せたいんだったら、LIVEハウスではなくてスタジオで見せたら良いじゃない。自分達は友達にチケットを売るとかはなかった。それは違う。志が低過ぎる。自分の魅力で自分にファンをつけないと。友達とファンは違う。チケットを売る相手が違う。若い子には『一度バイトも辞めて音楽だけで一カ月過ごしてみてごらん。どれだけ大変か。それで喰う為にどれだけの事をやらなくてはいけないか、一回一か月で良いからやってみたら?』と必ず言っている。その飢えに耐えられるかどうか、耐えてまでもやりたいと思えばやるべきだ。」

これから

現在、メジャーとはプロデュースや楽曲提供などで関わっている。そういった活動とは別に民族音楽と関わる機会は多い。ARBの後半は、オーストラリアのアボリジニの文化にハマった時期があった。「ディジュリドゥー」(白蟻によって空洞にされたユーカリの木を使って楽器にした物。世界最古の管楽器の一つではないかとも言われる。)をどうしても入れたくて、その為だけにオーストラリアに行ったりした。「ディジュリドゥー」をCD化したのは日本ではARBが初めてで、「ディジュリドゥー」の師匠のチャーリー・マクマーン(シドニー五輪の閉会式の「ディジュリドゥー」演奏者)を日本に紹介したのも白浜さん。音楽家として興味を持って半分ライフワークとして関わっていきたい音楽は民族音楽。自分がやってきた音楽とバランスを取りながら上手く融合できたらと思う。

「自分のやりたい事の殆どはやれた。楽曲提供してミリオンも出したし、海外でビジネスをやったり海外でLIVEもやった。出来ていないのは自分で歌ったものでヒットを出していないぐらい。でもそれはあまり拘っていない。自分がくだらないと思う音楽はやりたくない。少なくともやってそれが子供を産むような音楽~それが民族音楽だったりするんだけれども(近々タイフェスティバル開催等も予定)~今まで自分の周りでは知らなかったけれども、それに巡り合った事で幸せになってくれる人がたくさんいてくれる、そんなきっかけを作って行きたいと思う。せっかくボーダーレスで世界(例えばオーストラリアのアボリジニ文化とも)と繋がれるのだから。もっともっとやっていきたい。」

メジャーで楽曲提供したからって、世の中は何も変わらない。僕がいなくなったって何の不都合もない。それだったら他人が「こんなのやっても金にならない。」と言う事をやった方が面白い。ただ自分がアルバム出したり、LIVEしたりするのは、少なからず「僕の歌を聴きたい」と言うファンがいるから。ゼロになったら辞める。その人達がいる間は年に一回位はLIVEをやろうかと思う。

終わりに

以前たまたま見たTV番組の白浜さんの辛口トークが妙に印象に残っていて、かなり緊張してインタビュー当日を迎えた。「クールな一匹狼」のイメージを勝手に作ってお会いしたところ、話初めてすぐにイメージは訂正する必要があると気づいた。頭の回転の早さは印象通りだが、白浜さんの話には何せ登場人物が多かった。交友関係の広さと人柄なのか?しかも世の中や音楽界に対する鋭いコメントは幾つかありながらも、色んなミュージシャンの良さを客観的に認めている。俯瞰で物を見て音楽界全体をいつも念頭に置きながら、音楽に対するチャレンジに常にアンテナを張っているように感じた。そして仲間への友情。「自分はいつも能天気ぐらい元気だ。皆にも元気になって欲しい。」先日の元照和の仲間とのジョイントLIVE、そして福岡時代活動していたバンド“THE ZIGY”の3ピース編成のLIVE。白浜さんが仲間の背中を押して実現。現在、お母様の介護で年に数回帰福される予定とか。白浜さんの元気を福岡のミュージックシーンに分け与えてくださる機会が、今後も期待できそうな気がする。

[参考:楽曲提供、プロデュース、レコーディング等で関わった主なミュージシャン]
福山雅治、ユニコーン、中田ヤスタカ(Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのサウンドプロデューサー)、山本太郎、EBI(ユニコーン、ベーシスト)、森重樹一(ZIGGYボーカル)、叫ぶ詩人の会他  

関連リンク

動画Hisashi.Shirahamaプロジェクト“They said”http://pandars.net/theysaid.html

白浜久オフィシャルサイト http://pandars.net/

MARI OKUSU 2013.2.26掲載