第44回
ひとSTORY
小森陽子さん[ジャズピアニスト]
留学中の仲間とのアルバムは、全米チャート2週連続一位を獲得。自称負けず嫌いと対照的な笑顔は、演奏中に観客へと伝染してしまう。今回は、幼い頃にジャズの魅力に引き寄せられた、ジャズピアニスト小森陽子さんへインタビュー。
生い立ち
福岡市出身。公務員夫妻の長女として生まれ、兄も後に公務員となる。母はママさんコーラスに所属だったが、特別に音楽と関わる機会もなく育つ。当時高価だったレコードプレーヤーに子供は触れない家だったので、自分でレコードを聴くこともほとんどなかった。「子供は元気で走り回ること」を良しとしていた親だったので、習い事も特にしないまま小学校へ入学。
楽器との出会い
小学校へ入る頃、友達の家のピアノを弾いたり、レッスンへ付いて行ったり、ちょっとユニークな子どもだった。その子のお母さんが母に「陽子ちゃんはピアノがすごく好きそうだから、習わせたら?」と言ってくれたのもあり、7歳からジャズ好きなハモンドオルガンの先生のレッスンを受け始める。子供用の教則本のNO.1~6まで、ワクワクしながら弾いていたら、あっという間に終わってしまった。小3で「オール・ザ・シングス・ユー・アー」(ジェローム・カーン作曲)等を聴き、「カッコイイ!!」とジャズのスタンダードの魅力にハマる。当然、同級生は流行りの曲を好んだので、話題に出来る位は世の音楽情報を押さえていた。また、先生からハモンドオルガンコンクールの応募を促され、小3の時に出場。入賞からは外れたが、すごく楽しんだ。小5の時は県大会まで進み、結構ハマった。小6で九州大会優勝後、全国大会で東京へ行けることがとっても嬉しかったのを覚えている。発表会などの選曲は先生に一任していたが、ことごとくジャズで、小4の時などは「ラブ・フォー・セール」(コール・ポーター作詞・作曲)という有名な娼婦の曲を弾いた。
中学時代
中学校ではブラスバンド部入部。並行してハモンドオルガンは続けた。中学1~2年頃、初めて自分で買ったCDはジャズのオルガン奏者ジミー・スミス。その辺からジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソンなどを買い揃えていった。中3の時、ハモンドオルガンコンクール全国大会に進み、ジャズの曲で最優秀賞受賞。そして、高校の時にブルーノート(ニューヨークのジャズクラブのフランチャイズ店)が福岡市内にオープン。先生から「こういうミュージシャンを見ておいた方が良いだろう」と頻繁に誘ってもらい、オスカー・ピーターソンやハービー・ハンコックの来福時のステージに興奮した。先生の影響は本当に大きかったと思う。
大学、そして就職
西南学院大学国際文化学科アメリカ文化コース専攻。ブルーノートが学割で行けるようになったので、バイトをしながら、結構通った。西南大にはジャズ研究会がなかったので、部員数7~80名の九州大学のジャズ研に通い、時には朝まで練習した。それ以外では、ジャズのライブハウス“バックステージ”でもバイト。カウントベイシーオーケストラの来福時には毎年メンバーが店に顔を出し、朝までセッションを繰り広げた。世界規模の「セッションのレベル」に驚いたり、時には参加させてもらったりする中で、「めちゃくちゃスゴイ!!これはアメリカへ行かなくちゃ!」と、いつしか思うようになった。運良く3年生の春休みに米ロスアンゼルスへのゼミ旅行が決定。「せっかくだから、その前にニューヨークへ行こう!」と別の友人と1週間滞在することに。毎晩ブルーノートやジャズクラブをはしごするのが楽しすぎて、「また行かなくちゃ!」と心に決めた。バークリー音楽大学出身の人とも知り合い、「学校へ行くと言うのは、勉強も出来るし、仲間も出来るし、すごく良かったよ!それがなくて、いきなりニューヨークだと、一からコネクションを作るのは大変だと思うし、学校経由はなかなか良いよ。」と言われ、「これだ!」と思った。とは言え、「普通に就職して、数年して結婚する」と思い直し、大学4年で就職活動を始める。氷河期ではあったが、無事就職。5年間の社会勉強を経て退職。
留学
会社員時代もたまにライブで演奏したり、音楽に触れてはいたが、ある時「やっぱり、もっともっとピアノが弾きたい」と思った。退職したのが27歳。「今、ピアノが上手くならなかったら、一生上手くならない!」と感じていた。たまたま友人から、「ジャズの雑誌に国内で開催されるバークリー音楽大学の奨学金試験のことが載ってるよ!」と教えてもらう。「受けに行ってみよう!」ちょうど締切に間に合い、みごと合格。1年間のつもりで渡米したが、ピアノ部門の中の優秀者として、さらに追加の奨学金がもらえたので、合計2年在籍。演奏・作曲を中心に学ぶ。大学生活は新鮮で、今、活躍しているミュージシャンもたくさんいた。その時の仲間は貴重だと思う。また、学内は競争が激しく、ピリピリしていて小さなプロの世界を体験できた。学校から Mary Jane Earnhart Ellison Endowed Award を受賞。
ニューヨーク
ボーカリストのSamantha Sidley(アメリカンアイドルにも出場)は、アルゴンキンホテル(著名人や編集者が利用する名高いホテル)の高級なバーのYoung Artist Competitionと言うコンテストを受ける為、バンド出場する予定になっていた。急遽ピアニストが参加出来なくなった為、友人の推薦で白羽の矢が立つ。結果、優勝。ホテル関係者からもピアノ演奏を高く評価され、ホテルのジェネラルマネージャーから「バークリーの後はどうするの?」と尋ねられた。ニューヨークに引っ越すか、日本へ戻るかを迷っていると答えると、「じゃあ、今、ホテルでピアニストを探しているから、ここで弾く?」「ぜひ!!!」すぐに契約の話をされたが、学生ビザだった為、アーティストビザを大至急取るように言われ、弁護士を雇い、3か月かかってビザを取得。そこから2年間、ホテルでピアノを弾く機会を得た。その間、ニューヨークタイムズ紙やヴィレッジヴォイス紙において、高い評価を得る。2007年11月、バークリーの仲間のベーシスト津川久里子とのデュオアルバム“In The Afternoon”を発表。その後、ビザの期限と家族の看病の為、2009年2月帰国。ニューヨークは楽しかったけれど、寂しさもあったので、ちょうど良いタイミングとなった。
UoU
2007年バークリーの仲間とニューヨークでバンド“UoU”を結成。メンバーは他に山田拓児(sax.)阿部大輔(g.)津川久里子(b.)二本松義史(ds.)。毎週月曜、二本松さんのアパートの一室で作曲セッションを続けた。メンバーの二人が帰国する前にCDを作ろうと、2008年夏頃、アバタースタジオ(ジャズの一流ミュージシャンで言えば、ピアニストのブラッド・メルドーやギタリストのマイク・スターン等も録音に使用)でレコーディング。ちょうど、レコーディング・エンジニアとして就職したバークリーの仲間の協力もあり、練りに練って完成。帰国後とはなったが、2010年に米国のTippin' Recordsから1stアルバム“HOME”をリリース。その後、日本で毎年ツアーを行ないながら、2013年1月に2ndアルバム“Take the 7 Train”をリリースすると、米国で最も権威のあるジャズ誌“ダウンビート”に取り上げられたり、全米ジャズチャートで2週連続1位を獲得。近い将来、3枚目のアルバムも検討中。
これから
そのうちに、自分のリーダーアルバムのCDも作りたい。ニューヨーク時代、ピアノであちこちセッションに行ったが、次回行く時はオルガン修行で行けたらと思う。当時は勉強にもなったし、セッションで全く弾けなくて、怒られて落ち込んだこともあったり、ピアノではそういう機会がたくさんあったが、オルガンは最近しっかり弾き始めたので。そして、「音楽の力」をもっと自分が認識して、強い思いを持って伝えていかないといけないと最近あらためて思う。やってる事が当たり前過ぎて、普通のことだと思っているけれど、それは本当に大事なことなんだ。音楽の力を認識しないといけない。意識が変わると奏でる音も違ってくるだろう。
インタビューを終えて
インタビューの途中で、アメリカでの偉業を封印しようかという話もあった。そのセリフに小森陽子さんの強さを垣間見た。過去にとらわれず、未来の自分を信じて突き進んでいく姿が想像できた。母になった感性も携えて、また海外に挑んでいく笑顔の女サムライに期待したい!
文:MARI OKUSU 2019.8.17掲載
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