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第42回

ひとSTORY

河原抄子さん(箏・十七絃奏者)

河原抄子さん(箏・十七絃奏者) 河原抄子さん(箏・十七絃奏者)

恵まれた環境の中、運命の楽器としっくりした関係を築くまでに少し時間を要した箏奏者・河原抄子さん。箏との切っても切れない深い縁、素晴らしい人々との出会いなどなどインタビュー。

生い立ち

福岡市で生まれる。五歳上の姉(箏奏者・河原伴子)と二人姉妹。父はFGA(英国宝石学協会)を取得した専門家として宝石店を営み、母は箏曲鶯絃会主宰、河原久子。(‘17年福岡市文化賞受賞)しかし、箏の英才教育は特別にはなされず、記憶をたどれば、幼稚園で母のピアノ伴奏で弾いたり、演奏会で弾いたりと、なんとなく箏を弾いていた。何故なら、傍にあったから。また、「楽器は同時に二つさせた方が良い」と聞いた母は、姉や自分に幼い頃からピアノを習わせ、高校3年になるまでレッスンは続けた。

大学受験

箏のレッスンの為、母は高校生になった姉を東京の菊地悌子先生(作曲家・箏曲家の宮城道雄の弟子で、曲を箏奏者が作るのではなく、作曲を勉強した作曲家へ委嘱した第一人者で「十七絃」の第一人者でもある)の元へ通わせ、のちに東京藝術大学へ合格。同じサイクルで、高校入学後、東京へのレッスン通いがスタート。音楽は好きだったが、箏に特別な感情を持つことはなく、本心は嫌でたまらなかった。東京のレッスンは目から鱗が落ちることは多かったが、相変わらず「好きなワケではない」と思いながら、藝大受験。二次試験の合格通知は届かず、嫌気がさしてきて半年は何もせずに過ごした。父は気分転換を兼ねて遊びへ連れて行っては「大学へは行った方が良いぞ。」と言ってくれたが、全く畑違いの学部を受験する準備もなく、東京でのレッスンを再開した。その後、東京藝術大学音楽学部邦楽科合格。ピアノは歌いこめる部分が気に入っていたが、「箏で歌う」と考えたことはなかった。浪人時代に色んなものを聴く機会に恵まれ、レッスンを通して「箏で歌う」難しさも知った。先生は邦楽や洋楽などの垣根も無い方で、柔軟な考えの持ち主に育ててもらったので、父から「音大へ入って嫌だったら、止めても良い」と許可されていたが、面白くなってきてしまった。この時代が今の自分の土台になっていると思う。

姉の存在

浪人中は他人の粗ばかり見てたかもしれない。ある時、姉から「あなたは悪いところばかり言ってるけれど、誰でも良いところが一つ位あるよ。そういうところを見ないと!何の為に聴きに行ってるの?何の勉強にもならないじゃない。」と言われ、納得し、聴き方を変えた。姉を始めとした多くの人の力を借りて、舞台での演奏を続けてこられたと思う。長女の姉は先に行って切り開いてくれたり、姉を通した人脈で可愛がってもらったりと、姉のお陰と感謝することは多い。大学でも姉の顔に泥は濡れないと少々プレッシャーはあったが、有難い環境だったと思う。

大学院以降

菊地先生が教授をしていた、東海大学大学院へ入学。大学では基礎を学び、大学院では十七絃(低音楽器)の作品を中心に色んな音楽を学び、修了時には十七絃と箏でリサイタルも開催。大学院を卒業し、菊地先生の舞台の演奏がある度についていかせていただいたので、先生はもちろん、一流の演奏者の楽器の準備など、間近で見せてもらったり、食事したりの中に肥やしになることが多く、学校以外にもスペシャルな学びの場を持てたと思う。スタジオでのレコーディングのオファーももらい、ミュージシャンのアルバムCD参加など多数経験。しかし、一生東京へ居続けることは想像できなかった。また、作曲家の先生に海外の公演に連れて行ってもらったり、地元福岡で演奏の機会が増えるにつれ、「どこに住んでいても変わらない」と思い立ち、福岡へ戻ることにした。

拠点を福岡に

福岡へ戻ってからは、大学の非常勤講師や中学校の箏曲部の指導と学校と関わるようになった。東京時代もお弟子さんにレッスンをしていたが、福岡でもスタート。人に教えることは過去に自分が先生から言われたことをそのまま伝えているような感覚で、大変勉強になっている。‘98年には、東京津田ホール・福岡あいれふホールにおいて「河原抄子 筝・十七絃リサイタル」を開催。‘99年第6回賢順記念全国筝曲コンクール奨励賞受賞。また、‘17年姉と初のジョイントコンサートを開催。

二人の恩師

ピアノの先生から「あなたは、日本人の感覚を意識して理解できてないとダメよ。日本(固有)のものをやっているのだから。」と言われた。ピアノと箏、それぞれの先生は共に、子ども扱いではなく生徒の個性を活かしてくれた。箏の菊地先生は、姉と二人が同じ曲を演奏し、違うように仕上がってもダメとは言わなかった。生徒自身の解釈や独自の音楽が出てくることを非常に尊重してくれる。他所の師弟関係では、「こうしなさい」と弟子が師匠のコピーになる確率は高いが、菊地先生はそうではない。音楽を、人間を育ててくださっている。そして、レッスン受けると元気が出る。大学の時は師事している先生以外に習ってはいけない決まりがある。しかし、毎週土曜日には菊地先生のお宅の二階でレッスンではなく、勝手に自主練習をさせてもらい、晩御飯をいただいて、また練習してを繰り返していた。菊地先生との出会いがなかったら、自分は音楽の道にはいなかったのではないかとさえ思う。趣味では続けていたかもしれないが。大学院への進路を相談した時、「菊地先生はなんて仰っているのか?」と父は質問した。「リサイタルも開催する機会も出来るし、それも良いんじゃないかと。」と答えると、「先生が良いと仰っているなら、良いぞ。」と先生を信頼する父は言った。全く違う世界の人間なのに、わかっていたと思う。菊地先生は90歳を超え、今だにレッスンをつけてくださっている。

自己分析

根がまじめ。「石橋を叩ききって渡らない。」は姉からの評価。とは言え、だんだん図々しくなってきた。十代後半の時に、「カラーが出てくると良いよ。」と言われたことはあるが、とってつけたように「こんな風にします。」と言うのは自分には向かないと思う。色んな所へ出て行かないと、機会は掴みとれないのはよくわかっているけれども、自分の性格もわかっているので、、、。

今では、どんなカラーになっているかは自分ではわからない。

やりたいこと

これからの計画は特にないが、(福岡へ戻ってきてから思ったのは、)一つは「続けていくこと」。色んな方に対して、どんなにお世話になったと感謝しても、同じようにはお返しは出来ないので、「続けていくこと」で感謝を表したい。演奏や舞台を続けていくことで、すごく有名じゃなくても、ちゃんとやっていることは、親や恩師たち、私にとっては誰もが喜んでくれることなので。「自分のリサイタルは、やらなきゃダメよ。」とずっと言われ続けてきているので、毎年ではなくても、続けて行きたい。二つ目は「還元する」母の箏の音がとても綺麗で、宮城道雄先生の曲を弾くと、「宮城曲ってこうよね!」となる。私自身も良い音で弾きたいし、良い音だねと言われるミュージシャンでいたい。また、勉強を止めないようにしたいと思っている。技術は年齢を追うごとに、足りなくなっていくことと、良くなっていくこととある。でも勉強は続けていける。何かがあって勉強するのではなくて、勉強続けていないと何かの時に対応出来ないので、そうやってずっときている。これからもその繰り返しだと思っている。垣根無く色んな音楽を聴きたいと思う性質なので、色んな人たちと共演させてもらうのは嬉しい。

インタビューを終えて

開口一番「人見知りです」と伺うも、落ち着いた雰囲気からはそれを証明することは難しかった。律儀な性格とご自分に正直な姿は凛々しくもある。箏と十七絃の綺麗な音色で奏でられる、伝統と柔軟な音楽性をお楽しみください。

十七絃箏(じゅうしちげんこと)とは・・・邦楽合奏において低音域を担当する楽器として作曲家・箏曲家の宮城道雄が考案。

文:MARI OKUSU 2019.4.1掲載