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第29回

ひとSTORY

浦ヒロノリさん(サックス奏者)

浦ヒロノリさん(サックス奏者) 浦ヒロノリさん(サックス奏者)

福岡出身ながら、関西、関東、海外で音楽活動を積み重ね、ジャズのみならずゴスペル、ソウル、ファンクなどから得ている音の表現は各方面から高い評価を得ている。

今回は現在、糸島市を拠点に全国各地で活動を展開中のサックス奏者、浦ヒロノリさんにインタビュー。

音楽への興味

1986年粕屋郡宇美町生まれ。仏師(仏像を始めとする文化財等の修復)を父に持つ三兄弟の長男。幼い頃は父の跡を継ぐと漠然と思って育った。吹奏楽部出身の従兄の影響で「楽器がやれたら」と想像はしたものの、本気で楽器好きになったのは小3の担任の先生の上手なリコーダー演奏がきっかけ。小学校時代の通信簿にはリコーダーについてのコメントばかり。糸島へ転校した五年生以降もそれが続いた所を見ると、相当熱心にリコーダーを吹く子供だったようだ。時折、大好きなおばあちゃんに電話越しに演奏を聞かせることもあった。

サックスとの出会い

中学校では吹奏楽部へ入部。「楽器不足で、新入部員はリコーダーで練習」となり、自分用の楽器を手に入れようと楽器店へ。「1人で吹いてもカッコ良いんじゃないか?」と父の提案もあり、サックスを選ぶ。その時1枚のチラシをもらった。福岡市の社会人サックスオーケストラ「サクソフォネットフクオカ」の団員募集の内容。年齢・性別・経歴不問だった為、すぐに見学に行き、入団。当時はクラシック、ジャズ等様々なジャンルから100人以上のサックス奏者が参加しており、そこでグレンミラーなどジャズの曲を演る機会があり、サックスを始めると同時にジャズと出会う。団長の山崎一男氏はプロのジャズサックス奏者で、個人的に指導してもらう機会もあり、米国のサックス奏者ポール・デスモンドの「サイモン&ガーファンクル」のカバーCDを紹介してもらう。「何、これ?」デスモンドのサックスの音色が美し過ぎて、今まで聴いた吹奏楽のサックスととても同じとは思えなかった。これを機にジャズにのめり込み始め、部活のパート練習の時など、仲間にこっそりジャズのCDを聴かせていた。

高校時代、神戸、そして留学

サクソフォネットフクオカでの活動を、偶然高校の後輩に見つけられ、強く勧められる形で高校2年の時に吹奏楽部に入部。とは言え、相変わらずサクソフォネットフクオカの活動に重きを置いていた。年齢は断トツで最年少。先生や大人たちから可愛がられ、福岡市内にまだブルーノート福岡があった頃、団員の大人たちによく連れて行ってもらった。そこで初めて生のジャズ演奏を見た時に、自分にとっては名前すら知らないミュージシャンだったが、「演奏を聴いて、初めて頭より上で拍手をした!」と家族に興奮しながら報告した事を鮮明に覚えている。高校卒業後、甲陽音楽学院(兵庫県神戸市)入学。学校ではジャズ理論や演奏を学んだが、普段の活動はフュージョンやファンクなどジャズよりもビートがきいた曲を演奏する事が多かった。同年代で組んだバンドの活動の他、レストランでのデュオ演奏や月一で徳島や香川で現地のミュージシャンとも演奏。二年目に提携校であるバークリー音楽大学(米国ボストン)の奨学金オーディションに合格し、翌年留学。

ボストンでの生活

大学では、学校内の先生や大きなイベントのディレクターに積極的に連絡を取り、複数のコンサートに出演決定。周りで大きめのコンサートに出演している同級生は少なく、特に日本人は自分だけ。これも持ち前の「やってみる!」の性格でチャンスをものにした。ある時、米の音楽家バ―ト・バカラックのトリビュートコンサートにも選抜され出演。バカラック本人も含めたバンドメンバーの半分以上が講師陣。そこで、リードアルト(音でバンドを導いていく役割)にも抜擢。日本だとなかなか重要な役を新人に任せにくい気がするが、アメリカはそういうチャンスをくれる場所だった。しかも本番中、横に座っている先生が緊張している自分に「落ち着いて!大丈夫。ゆっくりいいよ!」「今の良かったよ。」「さっきの演奏はこうしたら、もっとカッコ良くなるよ!」と現場でも色々教えてくれるなど、とてもやりごたえある経験だった。バカラックの演奏が手の届く距離で聴けた貴重な体験でもあり、チャレンジした者にしかわからない、多くの何かを得た。数千人が収容できるアリーナを貸し切った、Berklee commencement concert(卒業コンサート)にも選抜され出演。攻めたら攻めた分だけ、良い具合に自分に良いステップが用意されているなと思った。

東京、そして福岡へ

卒業後は日本に帰る事を決めていた。ボストンの仲間が多かった事もあり、住む場所は東京に。当時、同世代でモチベーションが高い人たちが周りにいてくれると自然と自分を上げられたので、東京がちょうど良かった。ボストンへ行く前も覚悟のようなものはなく「行ったら楽しそう!」と楽観的に考える性格。そういう動き方をしてると、周りもそういう人が集まってくるので、東京時代も夜通し話をするポジティブな仲間や褒めてくれる人が多かったから、続けて来られたと思う。しかし、しばらく東京に住んでみて「受け身でも活動がなんとか出来ていた」感じがあり、「このまんまかな?もっとストイックになろう!」と再渡米の為、福岡へ戻る。「そう言えば、福岡で音楽活動やった事なかったな。ちょっとやってみよう!」それが、思いの外やりごたえがあり、ずっとそれが延びている。今は福岡に住んで活動する意味が段々腑に落ち出してきた。「住む場所じゃない。」矛盾するかもしれないが、環境が変わるととても変わる事もあるが、自分がどうあるかの話。住む場所が変わったら、自分の在り方も再発見がたくさんあって、そうなると、どこに住んでても一緒と思う所もある。そして、今思っているのは、「演奏している時だけが音楽じゃない。」色んな経験値、色んな物を見たり、人と喋ったりする事も音楽する上で意味がある。東京時代より、福岡に戻って来てからの方が、見てる範囲が広くなった気がする。良くも悪くも東京にいた時は、パッと皆集まれて、新たな出会いもあるが、その他大勢の1人になりがち。福岡へ戻って来てからは、自分がこめてやった事はある意味、目立ちやすい。その他大勢になりにくい。今、アメリカに住みたいとまでは思ってなく、ここ(糸島)を拠点に動いて、持って帰って来て何かやろうとすると、見てくれている人がたくさんいるから面白い。今はどこに住んでいても大丈夫だと思うので、糸島に住みながら、あちこちへ動いて演奏しに行く方法をとっている。

ウクライナでの演奏

東日本大震災以降、当時は音楽も自粛ムード。しかし、自分が出来る事は音楽しかない。そんなジレンマを感じていた頃、バークリー時代の同期(仙台市出身ピアニスト岡本優子さん、当時NY在住)からオファーがあり、2011年10月に日本人として初めて、ウクライナで開催される国際ジャズフェスティバル” International Days of Jazz Festival in Vinnitsa”に出演し好評を博す。これは東北の震災のチャリティを兼ねており、自分にも出来る事があると安心でき、日本人としてこのタイミングで演奏している事に特別な意味を感じた。メンバーは世界各地で活動中の仲間に自ら声をかけて集め、1~2週間の滞在中ウクライナの多くの街で演奏した。

アトランタ旅行と野望

2016年オフでアメリカを1か月間旅行。NYではなく、アトランタを選んだ理由は、①知り合いが誰もいない場所で誰にも頼らずに過ごす②黒人文化の純度の濃い場所③音楽仲間の強いススメ。現地のお店で演奏に加わったりしたが、変な意味での日本人としての扱われ方はされず、自分の国感を持って、演奏するのが楽しかった。一か所に慣れるのはイヤ。福岡に住んでるのも良いんだけれど、こっちに慣れ過ぎないように、フレッシュな気持ちでやれるよう、アチコチへ行くやり方をとっている。それが拡大していったら良いなと思う。次第にいつかは、海外でもライブを企画をしてもらったり、音楽の距離を感じないような動き方が出来たら嬉しい。今は、強いて国を言えば、アフリカで演奏してみたい。土着な感じが好き。アトランタへ行ったのもそこに繋がっていると思っての選択。そして、メンバー含めてまだ固まっていないが、自分のオリジナル曲を入れてきちんとアルバムを作りたい。ミニアルバムは発売しているが、「自分の音」と言える「顔」になる物、カバーアルバムでも良いので「形」を作りたい。海外レコーディングなど、多くの人に聴いてもらうこと等どんどん夢は広がっている。

終わりに

穏やかで優しい眼差し、現状に甘んじない挑戦し続けるエネルギーと相反する二つを持ち合わせている浦ヒロノリさん。糸島から世界へ。夢だけで終わらせない力強さを感じるミュージシャン。今後の活動も目を離せない。

文:MARI OKUSU 2017.6.7掲載

  • 共演者
    Paula Cole、Keith WildChild Middleton、溝口肇、Takuya Kuroda、露崎春女、ミッキー吉野、Richard Hartley、MALTA、前田憲男、John Blackwell、モダーン今夜、Marshall McDonaldなど。
  • 演奏動画 「Home」 浦ヒロノリ https://youtu.be/T8OyV5iG6A0e
  • 浦ヒロノリ うらちゃんのブログ https://ameblo.jp/urachanblog/