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第25回

ひとSTORY

山崎箜山さん(尺八奏者)

山崎箜山さん(尺八奏者) 山崎箜山さん(尺八奏者)

尺八と土笛の演奏家、山崎箜山さん。 北九州在住の尺八奏者の名を広く知らしめたきっかけは吉田兄弟との全国ツアーだろう。古典奏者としても一流であるが、ロック、ジャズ、クラシック、その他多数のジャンルと積極的にエネルギッシュな演奏を今も全国区で展開している。今回、そんな山崎さんにインタビューさせて頂いたが、やはり人生も変幻自在な演奏さながらのユニークなものだった。

生い立ちは流行歌から

北九州生まれ。祖父、父は共に尺八都山流大師範、母も筝の大師範という恵まれた環境で生まれる。物心ついた頃から邦楽愛好者の演奏会(三曲会)に連れて行かれ、5〜6才の頃から家にある尺八を手に取ってはいたが、その頃は邦楽の世界に魅せられることは無かった。しかし、父が買って来たドーナツ盤(レコード)から盛んに流れるいわゆる流行の音楽、主にドリフターズ、クレイジーキャッツ、アイジョージ等のムード歌謡、そしてその後ブームになったグループサウンズやラテン音楽は自然に聴き入っていた。様々な音楽を受け入れる感性と、ツボを得た演奏スタイルの基本はこの時代に培われたに違いない。

バンドに夢中の青春時代

中学に入って運命のバンドに出会う。ビートルズだ。特にポールマッカートニーのメロディアスなベースラインはセンセーショナルだった。その影響でエレキベースを買い、それから高校生までバンドリーダーとして没頭する。中学生時代は、当時流行っていたキャロル、ビートルズをはじめ、井上陽水等のロックや日本のニューミュージック(当時日本で、テレビにはあまり出ないポップス系の音楽をそう総称していた)のコピー演奏を。そして高校生時代は、ディープパープルやレッドツエッペリン等のハードロック、上田正樹やサンハウス等のジャパニーズロック、その他多数のコピー演奏をしていたが、ベーシストとしても、多数のバンドの助っ人として重宝され、同世代の今と同様‘売れっ子′ベーシストだったようだ。

バンド小僧、やっと邦楽に目覚める

バンド三昧の日々のさなか、邦楽に目覚めるコペルニクス的な転回が訪れた。それは高校二年生のある日の人間国宝山本邦山氏(山崎箜山氏と名前がそっくりである)とブラウン管(TV)を通しての出会いだった。邦楽界のスーパースターは紋付袴に長髪のカッコのいい出で立ちをし、NHK交響楽団のゲストとして、技術の高い演奏で圧巻した。それはバンドどっぷりの青年の心を鷲掴みにしたのは言うまでもなく、今まで聴いてきた尺八のイメージを一新させた。そして初めて、真剣に尺八と向き合ってみようと心から思う。東京からの邦楽の演奏会を頻繁に聴きに行くようになり、ついに父の手ほどきも受け始める。

邦楽に一切興味を示さなかったバンド小僧の息子の意外すぎる展開は、両親を驚かせ、喜ばせたのは言うまでもない。

文学部へ入学、そして意外な就職

恵まれた環境のなか、このまま邦楽の道へまっしぐらかと思いきや、なぜか大学は関西の文学部へ進学する。実は青春時代に聴いていた洋楽がきっかけで英語にも夢中になっていたのだ。大学の和楽器クラブで父と同じ流派の師範、池田静山氏に出会い、師事した。手厚く本格的な尺八の指導とともに関西のテレビやラジオに出演する経験も積ませてもらうが、当時はプロの演奏家になる意思は全く持っていなかった。そして卒業と同時に北九州の実家に戻り、新卒から30才で辞めるまでの間、中学と高校の英語教師を務めたのだった。

ターニングポイントは吉田兄弟との出会い

英語教師の一方で続けていた尺八演奏は、周りで好評を得ていたため、二足のわらじの生活は日増しに体力的にも精神的にも限界にきていた。そしてついに30才で英語教師を退職する。しかし、33才で結婚もし、子どもも授かり、暫くアルバイトと演奏活動の二重生活を余儀なくさせられていたが、40才になったあるとき、博多金獅子太鼓(博多在住の太鼓演奏者)から津軽三味線の吉田兄弟を紹介され共演し始める。そして2002年〜吉田兄弟全国ツアーの尺八奏者に5回に渡って抜擢され、CDにも参加した。東京にも大勢いるはずの尺八奏者だが、福岡で地道に活動している尺八奏者が5年にも渡って抜擢されるとは、実力のほどがうかがえる。これによって全国区で演奏が認められた実感を得たが、東京で活躍するミュージシャン達との交流ができたことも大きな収穫となり、その後の音楽活動の幅を広げるきっかけともなった。しかし、吉田兄弟との華々しい共演の日々の裏で、地道な邦楽奏者としての鍛錬も忘れなかった。都山流尺八本曲コンクール全国大会にて2回の優勝し、いずれも文部科学大臣賞等の複数の賞を受賞する。それからは邦楽界の仕事も盛んに舞い込むようになった。変幻自在の演奏の才能を持ち、多忙ななかでも努力を怠らない謙虚な人間性に驚かされる。

今からの演奏活動、そしてまるで少年のような夢

意外にも今まで自分のCDのリリースをしたことがない。周りからは切望されるので、近々製作する予定だ。そして現代の人たちが邦楽の良さを知る啓蒙も常に意識して音楽活動している。これからの方針も『今までやってきたことは大きく変えない。信じてきた大きな幹を大事にすると、根や葉や全体が大きくなっていく。そんな樹木の様な成長を最後まで地道に続けていきたい。』と堅実なものである。しかし将来の夢は?と、もう一度きいてみると、『宇宙から地球を眺めながら尺八を吹いてみたい、死ぬまでに』と一転して本気で少年のような夢を語りだした。

終わりに

堅実さとユニークさのバランスを微妙に保ち続けてきた人生は、山崎さんの音楽性にそのまま反映されている気がする。人柄はというと、屈託のない、穏やかな印象。『結局やってきたこと中途半端なんですよ』と飄々と信じ難いことを口にする謙虚さには参ってしまった。しかし今は親父バンド2つも掛け持ちし、様々なシーンにひっぱりだこの‘売れっ子’演奏家なのだ。

最後に好きな言葉を聞いてみた。『Youger than yesterday(ボブディランの曲の一節をもじった言葉)』。英語で締めくくるとはさすがである。

文:TOHI MURATA 2017.2.25掲載