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第13回(前編)

ひとSTORY

塚本美樹さん(“VISIONS” ピアニスト)(前編)

塚本美樹さん(“VISIONS” ピアニスト)(前編) 塚本美樹さん(“VISIONS” ピアニスト)(前編)

イージ―リスニング界最高峰アメリカのパーシー・フェイス・オーケストラ‘99年日本ツアーで唯一の日本人として参加。‘13年韓国のデュエットグループ“HUE”とのコラボアルバム“GRACE”を発売し、韓国のCCMチャート1位を2週連続した快挙を持つ “VISIONS”のピアニスト。また‘13年末封切られた、世界でも活躍する映像作家菱川勢一初監督作品の短編映画“すず”~モノクロームヴァージョン~でBGMも担当。

今回はJAZZトリオ“VISIONS”のピアニスト、福岡在住の塚本美樹さんにインタビューをさせていただいた。

音楽との出会い

クラシックピアノを始めたのは5歳。YAMAHAの音楽教室では譜面通りに弾くよりも、自分で曲を作ったり、聞こえてきた音を楽器で再現するのが好きな幼稚園生。耳は音に対して敏感で、始終音のアンテナを立てていた。ある日レコード店で流れていたピアノ曲がこのアンテナにひっかかる。「こう言うのは何て言う音楽なんですか?」お店の人に尋ねてみた。「これはJAZZって言うんだよ。」そのやりとりで教えてもらったレコードを、親にねだってすぐに買ってもらう。この時10歳。その後この曲のフレーズを真似て曲を書く事もあったが、たくさん曲を書いたり、自分の好きな物をピアノをおもちゃにして作る、周りからは一風変わった小学生に映っていただろう。

中学時代

中2まではコンクールに出場するなどのクラシックの世界に。学校では合唱部の伴奏へ立候補したり、休み時間にCM曲を弾いた。校内でも普通じゃない曲を弾いていると評判で、人が集まっては皆で歌う、それがまた楽しかった。またどんな曲にもアレンジする事が大好きで、例えば「どんぐりころころ」を●●風(ロック風等)にして弾いた。これは誰に教えられたのでもなく、小さい頃から自然にやっていた事。「いつも学校のピアノやオルガンで弾いてたよね。」小中学時代の友達の思い出にも刻まれている程。そうやってピアノだけじゃない楽器の世界(=バンド)がだんだん広がっていき、ビートルズや松任谷由実さんの曲を聴き始める。しかし10歳で出会った楽しげなリズム、心が弾む音楽がいつも心の中に潜んでいた。

高校入学

福岡県立福岡中央高校入学。高校生になって音楽が自分の中から抜けていってるのに気づく。「こんな事で良いんだろうか?良い筈がない!」そう思いながら10歳の時に出会った例のアルバムを聴くと、涙が出て止まらなくなった。「音楽を遠ざけて離れていくなんて、なんて事考えたんだろう。」絶対音楽家になると決断したのはこの時。幸いにも福岡中央高校は自由な校風で周りでバンドをしている人もたくさんいた。「バンドって面白そう!」仲間を見つけてバンドを組む事に。RCサクセッションのコピーをするが、どうしてもアドリブを弾きたくて、仕切ってどんどんアレンジをした。前にも増してジャンルにこだわらず色んな音楽を聴くようになっていくが、「カッコイイ!」と自分のアンテナにひっかかるのははっきりしていた。またアドリブと考えるとJAZZなのではないかと思い始め、ラジオでJAZZをたくさん聴いたりJAZZの情報を探し始め、どっぷりハマったのは16歳。マイルス・デイビスなどいわゆるJAZZの歴史をレコード店や書店へ行って(当時はインターネットもなかったので)漁るように調べる。「JAZZにはアドリブと言うのがある。テーマがあったら、その後ずっとアドリブをする形式になる。」等々。なかなか本も買えないので立ち読みをしながら。JAZZの事を知りたくて知りたくて居てもたってもいられない状態。自分にとってJAZZにはそうさせる魅力があった。

師匠との出会い

耳が良くて曲を聴きとるのが得意だったが、譜面に起こすと膨大な量になる。「まとめられるセオリーのような物がある筈。どこかでJAZZを教えてくれないだろうか?」高校1年の時は独学だったが、10歳の頃から通っているレコード店で尋ねてみた。「まだ学生さんだけど、九大のジャズ研究会でJAZZ理論講座やっている人がいるよ。」早速参加してみるとまさに自分が探していた内容。講師である大学院生の方は現在メンバー全員お医者様のJAZZバンド“DOCTORS”のピアニスト、精神科医の川嵜弘昭さん。講座が終わってもお茶をしながら質問攻めにした。寝ても覚めてもJAZZに没頭し、「ここだった、私の来る所は!」と確信する。高校の授業中にバレない程度に譜面作りもしたが、「プロになるんだから良いんだ!」と思い込んでいた。即興をキーワードに、ピアノだけじゃなく管楽器やベ-ス、ドラムのアンサンブルの面白さとか、瞬間瞬間皆が音で会話しているJAZZの面白さを感じ、その音楽を尊敬するようになる。いつかアメリカへ行って本場のJAZZに触れたいと思い始めたのもこの頃。ただ「まずは自分のモノにしなければ」と思い、生のJAZZに触れる機会を探した。最初はやはり“DOCTORS”。特に川嵜さんのライブは皆勤賞をもらえる程だった。

その後の高校時代そして受験

バンドに燃えてはいたがアドリブをもっとやりたくなり、だんだんJAZZやフュージョンに傾倒していき、新しいバンドのメンバーも探し始める。クラスメートで“MOGA”のドラマーひろみさんの参加は決定したが、校内ではメンバ-が見つからない。結局「キーボード中心のバンドをやろう!」とキーボード3名、ドラム1名のバンド“クリーンペッパー”を結成し、二―ルラ―センのコピーやオリジナルをやり始めた。またある日、今や日本を代表するドラマー佐野康夫さん(当時久留米在住で同学年)を高校の先輩が連れて来た。「ピアノトリオのバンドを組もう!彼だったら4ビートも出来てテクニックもスゴイよ。」その頃、福岡で活躍しているミュージシャンの噂は耳に入る事が多かった。JAZZのセッションは気心の知れたバンドとやる良さもあるが、初対面の果たし状を持つ戦いのような機会もまた魅力的だった。卒業間近にJAZZの老舗“NEW COMBO” の有田平八郎さん(初代マスター)から“スチューデントJAZZフェスティバル“の参加を促され、この時に難曲を演奏し話題に。そう言う感じであっと言う間に楽しい高校生活は終わりを告げようとしていた。卒業後は東京の大学のJAZZ研へ入りたかったが、親から反対され断念。川嵜さんに進路相談をして「福岡の私大でJAZZなら福大が良いかもね。」「わかりました!」と即決し、推薦入学で福岡大学へ。早い時期に受験が終わった事もあり、当時画期的だったYAMAHAのキーボードDX7を買うべくバイトに励み、卒業と同時に購入。

大学入学

大学へ入ったらすぐにスイングのJAZZがやれると思っていた。しかし‘84年当時は伝統的なJAZZが流行っておらず、音楽のサークルを覗いても先輩達は違うものしかやる気がなさそう。そんな福大の中で、一匹狼で有名なJAZZギタリストの中川正浩さん(NYでも活躍し、現在、福岡在住。)と巡り合い、セッションできるように。また師匠からのアドバイス「九州芸術工科大学(現在の九大芸術工学部等の前身)にジャズ研があって、そこでは伝統的なJAZZをやっている人達がいるから遊びに行ってみたら?」そうやって芸工大の学園祭のセッションにも通った。大学生としては最低限の授業数をこなしていたので、なかなか学校へ行く機会はなかったが、夜は「”NEW COMBO”が私の大学だ!」と通う日々。他には”リバーサイド”(中洲)”リメンバー”のLIVEへ通い、「一緒に演奏させてもらえますか?」とミュージシャンに積極的に交渉し、5曲程のレパートリーでセッションさせてもらう。ドキドキしながらフレーズを弾いて「イェイ!」と言ってもらえるのが嬉しかった。魂がギュンと流れていく。それが自分は音楽だと思う。その事がたまらなくて今も音楽を続けている。

出会い

JAZZを追いかける中で温かい人々との出会いがある。例えば六本松の貸しレコード屋のお兄さん。JAZZを聴きかじりたいので、「ここにあるレコードをとりあえず全部借りよう!」一度に借りられる制限の5枚を借りてはカセットテープに録音しては全部聴き、返してはまた別の5枚を借り、気に入ったフレーズをコピーする事を繰り返した。そしてお兄さんは時にはLIVEの招待券を譲ってくれる事もあった。”NEW COMBO”の有田さんはJAZZのレジェンドを招く等コンサートのプロデュースもなさっていて、タモリさんを表にひっぱり出した事でも有名。「秋吉敏子さんが見えるから美樹ちゃんおいで!」と引き合せてくれた事もあったり、ずっと「東京へ行け。」と背中を押してくれていた。

プロフェッショナル

大学3年の時周りは就職活動をしていたが、その1年程前からホテルでも演奏の仕事をしていたので「自分はJAZZが就職の道だからプロとしてやって行きたい!」と決めていた。かと言ってプロがなんだかはわかっていなかった。ピアノを毎日弾く仕事を探して、大学4年の夏に昼間は卒論を書きながら、夜は毎日パブでピアノを弾く仕事をするように。しかし頑張り過ぎて年末に体調を崩し、「女がそんな事出来る筈がない!」と親から反対される。先輩のプロのミュージシャンからも10人が10人反対された。大半の理由は「女やけん。女にはムリ!」ムリと言われたら絶対やる性格。「やれたらスゴイって事?」かえってモチベーションが上がった。大学卒業してパブの仕事も続けながら、フリーのプレイヤーに。色んなユニットの方に声をかけてもらいながら、それこそJAZZ修行。JAZZの歌の伴奏の難しさ、カルテットの難しさを色々勉強しながら続けて行った。来日したJAZZヴォーカリストの伴奏などはその日のリハで譜面をもらい「ちゃんとイントロ、エンディング付けてね!」と言われる。JAZZはかなり自由度が高いので、毎回リクエストに応える職人のような仕事。しかし叱られる事もしばしばあった。

アメリカ

いつかいつかと思いながら、アメリカの地に辿り着いたのは27歳の頃。それまでは色んなバンドのレギュラーピアニストとして活動。“デビュー”と言うバンド時代にIMSジャズコンテストで優勝。そして初渡米の時はまずはボストン、NY、そして最後に西海岸へとその旅は3ヶ月に及んだ。セッションをしたり、レッスンを受けるのが大きな目的で、有名なライブハウスで一番良い音楽を聴く事ももちろんあった。このような形態をとった旅は30歳までに6回を数える。ある日ハーレムのセッションが出来るJAZZクラブ“オ―ジ―ズ”へ行った時に大きな衝撃を受ける。店のオーナーである黒人の女性が「あんた、日本から来たピアニスト?弾いてみて!」言葉では表しにくいが彼女から家族のような気持ち良い、温かい空気~魂の繋がり~を感じた。自分がJAZZに感じていた、病みつきにさせていた物はこれだった!またそこに集まる人は皆、温かい。それでいて厳しくJAZZを愛していて、そのまま自分の表現をそこでしていて真剣勝負で挑んでくる。体格の良いドラマーとのセッションの時はビビりそうになるが「せっかく日本から来たんだから、やるしかない!」とド緊張の中で自分を奮い立たせた。「自分でしかない自分になるしかない。」それがNYで学んだ事。NYで仕事をすると言う事は地に足を着けながら人も蹴落とす位が常でもあり、そこで生き残った人々が店でのレギュラーメンバーとしてステージに立てるのだと納得した。また自分が持っている物差しと世界の物差しは違う。それは服のサイズもそうだし、何歳になったら結婚しないといけないといった固定観念に関しても。3ヶ月滞在してリフレッシュし、帰国してパワーいっぱい演奏活動を行い、段々また「日本の考え方の枠」に戻ってしまい、「これはいかん!」とまた渡米し、「これだった!」と気持ちをチューニングした。それでいてNYをベースにするのではなく、福岡をベースに活動して行こうと思っている。その理由は福岡の街が大好きだから。 (次回後編に続く)

文:MARI OKUSU 2014.2.22掲載

■“Visions”ホームページ http://www.geocities.jp/visionsmk/