音ナビ隊トップ > ひとSTORY > 桐明孝侍さん(THE KIDS VO.&G)

第★回

ひとSTORY

桐明孝侍さん(THE KIDS VO.&G)

桐明孝侍さん(THE KIDS VO.&G) 桐明孝侍さん(THE KIDS VO.&G)

福岡で結成されたバンド“THE KIDS”。 リーダーの桐明孝侍さんは19歳で“THE KIDS”を結成し、“THE KIDS”一筋33年。

福岡時代はインディーズ観客動員数1000人の記録を達成し、FM福岡「ライブエクスプロージョン」のコーナー「ワンナイトキッズ」を任される。その頃のリスナーは30年経った今でもライブ会場へ足を運び、"THE KIDS"ファンの原点と言える。その後東京へ旅立ち、幾つかの出会いがあり、現在の“THE KIDS”へ。

今回は帰福された桐明孝侍さんにインタビューを受けていただいた。

小中学校時代

桐明家の三兄弟の真ん中として室見で生まれ、福岡市立室見小学校入学。小学校高学年の時、4歳上の兄の影響で"ビートルズ"のファンになる。福岡市立高取中学入学。ちょうど世の中は「フォークブーム」。福岡出身では武田鉄矢さん率いる“海援隊”が“母に捧げるバラード”でブレイクした頃。給食の時間にギターを弾いてフォークソングを歌うような時代。自分でもオリジナル曲を作り、日に日に音楽が大好きになっていき、とりわけ"キャロル”や"チューリップ”が好きだった。高取中では三兄弟全員、生徒会長を歴任した目立ちたがり屋。中3になり体育会系の父親(私立西南高校ハンドボール部の創設者)と賭けをする事となる。「県立修猷館高校へ合格したら楽器も買ってやるし、バンドもして良い。落ちて西南高校へ行く事になったら、三年間グラウンドに青春を埋めなさい。」賭けには自信があった。裏付けるような模試の結果も持ち、先生からは太鼓判も押されていた。しかし神様のイタズラなのか、ただ単に本番に弱かったのか、修猷館の合格通知は届く事はなかった。

西南高校入学

子供の純粋さゆえか、父の言いつけ通りスポーツ刈りにし、インターハイ敗退するまでハンドボール漬けの毎日。音楽から遠ざかっていたそんな時"ロッカーズ”(現在は俳優活動をしている陣内孝則さんが在籍していたバンド)が高校の文化祭に出演、、、のはずだったが、メンバーの怪我が理由で中止に。当時男子校だった西南高校へ訪れた、"ロッカーズ”ファンの大勢の女子高生が落胆する様子を見る。「どうしてこんなに女の子に騒がれるんやろう、この人達は?」"ロッカーズ”の存在を初めて知った時だった。

音楽活動復活

インターハイが終わって音楽活動のお許しをいただき、封印していたフォークギターに再会した頃、母が面白い事を言ってきた。「照和って言うライブハウスになかなか良い歌手が歌いようらしい。私はおばさんやけん、恥ずかしいからあんたも一緒に来て!」母は博多のおばさんで、芸を一生懸命やっている人が大好き。実際、照和へ行ってみると、鹿児島から出てきた破れたGパンの細身の青年を見て(実際にはGパンは流行だったのだが)「何も食べてなかろう?今夜ご飯を食べさせるけん、家に来なさい!」と室見橋の我が家へ連れて来て、食事をさせる日々が始まった。その細身の青年とは“巡恋歌”でPOPCON(YAMAHA主催のコンテスト)へ出場する前のアマチュア時代の長淵剛さん。ちなみに桐明さんのお母様はそうやって見知らぬ人(例えば道に迷ったアメリカ人等)を家へ呼んで、ご飯を食べさせる等は珍しくなかったらしい。「困っとう人は助けないかん。」がモットー。高校生の桐明さんは長淵さんに「僕もフォークギター弾くんで、どうやって弾くか教えてください。」とギターを教えてもらったり可愛がってもらった。書き始めたばかりの曲を聴いてもらうと、「いいっちゃない?必ず日付を書いときいよ。」と教えてもらった。言われて以来今でも曲を作ると、必ず日付を書くようにしている。その後、長淵さんが後輩として"チャゲ&飛鳥”(現"CHAGE&ASKA”)を同じように桐明家に連れて来るようになった。

フォークからロックへ

"ローリングストーンズや"レッドツェッペリン”、"レインボウ”等のハードロックが流行っていたその頃、友人から「桐明はフォークソングやら歌いよっちゃろ?」と雇われボーカルで誘われる。ロバートプラントの真似をして"レッドツェッペリン”のコピーバンドに参加。「声の高か~。」と絶賛され、色んなバンドにボーカルとして引っ張られ手伝うようになった。長淵さんを始めメジャーデビューをしてヒットを生み出すミュージシャンと身近に接し、「ミュージシャンって良いな~」と思っていたが、「先輩達と同じ事をしてもダメだし、勝てん。」と分析。また自分の中でもフォークは違うかなと思い始めた所に"ザ・モッズや"ル―スターズ等のビートロックと出会い、「これはカッコイイ!」とアコギをエレキギターに持ち替えてめんたいロックを始める。

「と言ってもルーツは元々フォーク。ロックでも詞が面白くないと好きじゃない。ビートとかノリがカッコイイだけでも良いんやけど、僕の詞は読んでもらっても面白いと思う。」

“THE KIDS”誕生

1981年西南学院大学法学部へ入学し、初めて自分のバンドをやってみようと組んだのが“THE KIDS”。長淵剛さん、"チャゲ&飛鳥”、"ザ・モッズ”や"ル―スターズ”にも勝ちたい!先輩方の良い所を取り、フォークとPOPSとパンクが一緒になって作った“THE KIDS”。なので“THE KIDS”は色んな人の影響は受けているけれど、人真似じゃないと自負している。

そして今年で33年目。生涯本気でやった自分のバンドは“THE KIDS”だけ。

ちなみに“THE KIDS”と言うバンド名はイギリスのロックバンド、"ザ・フ―”の曲「The Kids Are alright(キッズ・アー・オールライト)」やイギリスの"プリテンダーズ”の曲「愛しのキッズ」から名付けた。イメージは「悪そう坊主」で。 

楽器

高校受験の賭けには負けたが、"ビートルズ"のベースのポール・マッカートニーや “キャロル”のベースの矢沢永吉さんのファンだったので、ベースを弾くのがカッコイイと思い、自分で購入。フォークギターも持っていたが、エレキギターは弦が細く、細かく弾かないといけないのは面倒臭い。ギター担当は別にいたが、オリジナル曲を歌う時にベースがいなかったので仕方なく自分で弾く事に。実は“THE KIDS”の初代のベースは桐明さん。その後新しくベースが加入。歌に専念していたが、その内ギターが辞めると言いだしたので、これも仕方なくギターを自分で弾くように。オリジナルを表現したいので何でも良い。ギターは決して上手くはないが、自分はギタリストではなく、シンガーソングライターと思っている。ギターも難しい事はしない。だけど田中一郎さん(現・"甲斐バンド”)からは「桐明は他のギタリストみたいに難しい事はできないけど、桐明しかしないような弾き方をするね。」と言ってもらい、やはりここでも人真似ではなく「オリジナリティ」が桐明流。

10代の頃の夢とファッション

大学1年の時の彼女から「桐明君は大学卒業したら何になると?」と質問された。法学部だったので「弁護士とかカッコイイやん。」とよくわからず答えてみた。「弁護士か洋服の仕立屋かミュージシャンになりたいって思いよっちゃんね~。」3つ年下の彼女は「どれもなかなか難しかろうね。」と冷静に評価した。洋服の仕立屋と答えたのは、その頃西新のGパン屋でアルバイトをしていた経験もあったから。実際には今で言うデザイナーになりたかったのだと思う。 ファッションにも目覚めて、お洒落なイギリスのモッズファッション等のスタイルに非常に興味を持った。音楽とそれがピタッと合っていたのがザ・フ―が作った英の映画「さらば青春の光」。ビートルズを始めとしてイギリスのロックはスタイリッシュ。その頃、ジェルのようなスタイリング剤は市販されていなかったので、ファンタグレープなどの炭酸飲料を代用して髪を立てていた。当時福岡のミュージシャンでも桐明さんのような金髪の人は多くなく、大学でも髪を染めている人はいなかったので好奇の目で見られる事は珍しくなかった。

“THE KIDS”の曲“A day in day“(ある日ある時)の一節に「ファッションは人に見せる物じゃなくて自分で自分に気づく為のアピールだった。」とあるが、正にそれを地で行っていた。

伝えたい事

「ステージを見てもらったらわかる。50も過ぎて大した金になるワケじゃないのに、「道楽」と言う人もいる中、お客さんがおる限り(LIVEを)やらしてもらいよう。20代の時は、金持ちになる夢も持っとうし、日本で一番、世界で一番のバンドと自分で思っとうし、(今でも持ってない事もないけどもっとガツガツしていた)それを外に熱として出しよった時代があった。それがわからん奴は否定する位の強さを持って。(今は違って、わからん人はわからんで良い。好きな人だけが来てください。と言う温度が程良く真ん中辺にきている。)ガキの頃はジレンマにも陥って、「こんな良かロックをしようのに、なんでわからんとかいな?日本ではロックは売れんとやないかいな?売れたのはロックやないばい。」とすねたり、人を羨む、青春のエネルギーを持っていた。それを悪いとは思わない。その位のパワーを持ってないと面白くないしね。若い内から枯れて「なんでん良かですよ。」と言ってるのは俺やったら信用せん。おっさんになってガツガツしてないでやらしてもらった時に青臭いガキ(誰よりも成功すると思っていた若い頃の“THE KIDS”の俺)に真似出来んような事が出来ると言うのが自信としてある。世の中は甘くない。でもその中で一生懸命やってきた事で「良かったね、頑張って。」と言う事が幾つかある。それが金とかやなくて、もっと得がたい物をしゃかりきになったお陰で持てとうばいってね。

音楽の衝動としては音楽を通して自分の気持ちとかを人に聴いてもらいたい。「俺はこげん思っとっちゃが。」って。来た人とコミュニケーションを取りたい。初めて会った人と上っ面だけで終わっても良いし、「こんにちは!さようなら。」で、この人は変わってるなと思いながら、もしかしたら5年10年お付き合いできるかもしれない。その為のステージ、ファンの人と一緒。「中学の時からラジオを聞いてました。」って30年も聴いてくれる人がまだ来てくれる。最高よね!地道に続けよったら、「知っとう!」「覚えとう!」と青春が蘇るし、青臭い歌を歌いようからね。どげん年取っても枯れた歌を歌う気はない。“THE KIDS”=ガキって名前にこっちも触発されとうし、俺の中ではそこが一番“THE KIDS”らしいよね。」

これから

「これから何か計画している事はありますか?」と最後にお尋ねした。「やっぱ、世界でしょ。去年のステージでも言ったけど、生涯ル―キーのつもりやから。ロンドンやビートルズに憧れて始めたから、ロンドンの白人の人達に自分達の日本語の歌を聴いてもらってブラボーと言ってもらいたいし、受け入れてもらいたいね。日本人もカッコイイ事するねって。ロンドンでやりたいし、ニューヨークでもやりたいし、世界に認めさせたい。ただその方法を全てを犠牲にしてやりよったのが子供の頃やった。今は・・・例えば三谷幸喜監督の映画"ザ・マジックアワー”の中で・・・売れない老俳優のあるセリフ「マジックアワーを待っているんだよね。それは必ず来るから、(チャンスが)いつ来ても良いように自分をちゃんとブラッシュアップしていれば、チャンスが来た時にパッと応えられるから自分は常に役者でいる。自分はマジックアワーを待っている。」これを聞いた時に「俺もそう。」と思った。音楽とか舞台でやらしてもらうってのは自分でしゃかりきにどうこうする話じゃない。人に選んでもらう。時代に選んでもらうような所があるから、運が必要とか言うけど、言葉を変えるとたまたま俺が必要な時代がある。たまたま必要じゃない時代もある。やっぱり時代が選ぶ。こっちからどうこうできる話じゃないから、この年になったら磨いとくしかない。呼ばれた時にぶっ飛ぶ存在でおれば大丈夫。こんな日本人がおるんや!全然カッコイイやん、みたいなね。」

終わりに

先述の通り“THE KIDS”の本拠地が福岡だった頃、ミュージシャンでも金色の髪の毛をしている人はそういなかった。金髪=“THE KIDS”のVOCALとイメージする人も少なくなかったのではないだろうか。短時間のインタビューながら桐明さんの人生を確認させていただいた事で、桐明孝侍さんの人生の芯は「オリジナリティを追求し続ける事」のように感じた。ビジュアル、曲、演奏、ミュージシャンとしての生き方。どれも桐明流。

福岡時代の「悪そう坊主」=“THE KIDS”から多くの方とのコミュニケーションや、様々な人生経験を積んで良い年輪を重ねた「悪そう坊主」=“THE KIDS”へと、これからもまた磨き抜かれたオリジナリティに期待したい。

公式HPから

1989年 Dr.西川貴博/Bass.粟田博をメンバーとして、平成名物イカスバンド天国に出演。

在宅審査員賞最多記録を獲得。

1990年 トランジスターレコードよりアルバム「サンセットコーリング」を発表。ロンドン、ベルリンなど東ヨーロッパツアーを行う。

1991年 メルダックレコードよりメジャーデビュー。アルバム「ナイフ」「ジャップ」「リアル・ラブ」その他シングル10数枚をリリース。

1998年 デリリオスミュージックに移籍。Bass.服部啓/Dr.大島噴火がメンバーとなる。

アルバム「バイブル」マキシシングル「14SPEED」を発表。

1999年3部作シングルシリーズカラーズオブピープルをリリース。

第1弾S+R(スイートロザリー)、第2弾シーズンオブエデン、第3弾ライフ。

2001年 博多ロゴスイベント参加。

出演:ポール・ウェラー、THE KIDS、ザ・コレクターズ等

2001年 オムニバスアルバムRock&Hill Records Vol.1に参加。

2002年11月 ドラムスにTHE KIDS初期メンバーである寺山ひろみが参加してRock&Hill Recordsより初のライブアルバム「LIVE THE ROCKET」を発売。

2004年~2006年の期間、新ドラマーとして宇野レイジを迎えライブを継続するが2007年に宇野レイジが他界。その後メジャーオリジナルメンバーである西川が正式メンバーとして復帰。

Vo.G桐明孝侍/Bass.服部啓/Dr.西川貴博の三人でこれまでにリリースしたアルバムをテーマにワンマンライブを行っている。

Dr.西川貴博さんプロフィール

1984年、白井貴子&CRAZY BOYSでプロデビュー。

その後も数々のアーティストのレコーディング、ステージサポートをする。

1989年に桐明と運命的な出会いをし、THE KIDSに加入。

「SUNSET CALLING」「KNIFE」「JAP」「RealLove」のアルバム&シングルに全面参加。

その後はTHE KIDSから一時離れるが、2007年には完全復帰する。

現在はTHE KIDS、アーティストのサポート、ドラムレッスン...と素敵なMusic Lifeを送っている。

※西川さんの奥様はタレントの浅香唯さん。

文:MARI OKUSU 2013.12.27掲載