第11回
ひとSTORY
中嶋晃子さん(旧アーティスト名~レイラーニ)
18 歳で渡英し、帰国後レイラーニの名で尾崎豊さんのトリビュートアルバム「 GREEN 〜A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」において「群集の中の猫」のカバーで参加。翌月コロムビアからミニアルバムを発売し、メジャーデビュー。昨年からは女優活動も開始し、多くの才能を万華鏡のように魅せてくれる中嶋晃子さんに今回はインタビューさせていただいた。
幼少の頃
3 歳にして歌手になると決断。七夕の短冊は毎年その事を書いた。当時歌っていたのは “ チューリップ ” などの童謡。ドライブの時乗ってから降りるまでずっと歌っていた姿が、家族の記憶に鮮明に残っている。「晃子ちゃんは音楽好き」そう思った両親は 4 歳から中学までピアノ教室へ通わせる。しかし本人は歌の方が大好きで、先生に本音を告白。小学 3 年から学校の合唱団に所属し、 NHK やRKB のコンクールに出場。歌う事が楽しく、夏休みも休まず真面目に練習に参加。1人で歌うのも合唱も大好きで、おばあちゃん家では朝から晩までカラオケのマイクを離さず繰り返し歌った。
中学~高校時代
中学と高校は一貫教育の私立福岡女学院へ。声楽を勉強する為、高校は音楽科へ進む予定で。クラブ活動は実力派のサッカ ― 部所属。やり出したら集中する性格で 3 年の時はキャプテンに抜擢される。サッカーに熱中して音楽からは少し離れたが、カラオケへ行くと友達のリクエストに応えた。中 2 の頃初めて自作の曲を同級生の誕生日にプレゼントし、文化祭でも歌うようになる。サッカーをしながら、歌への思いが徐々に変化していき、バンドで歌いたい気持ちが生まれてきた。進路相談で自分の思いを先生に伝えると、歌唱法が異なるとの理由で音楽科進学を断念。中学卒業間近にボイストレーニングへ通い始める。高校入学後、音楽科専攻のピアノが得意な友人と組み、一緒に曲を作ったりオーディションに出場。その後ボイトレで知り合った仲間とバンドを組む。その頃ボイトレの先生から「あなたの歌は感動しない。」と言い放たれる。頭を冷やして考えると「それはそうだ。プロになるのに人を感動させられないのは話にならない。でもどうやったら人を感動させられる歌が歌えるんだろう?自分に経験がなさ過ぎるのではないだろうか?自分が色んな経験した分を曲に書く事ができるんではないだろうか?」とにかく行動して体験したい!新しい事ややった事のない事にチャレンジしよう!と思い立ち、高 3 の夏休みにイギリス短期留学を計画。その前に通った留学塾の先生からトムウェイツの曲を紹介されたり、先生と数人で曲について「これを聴いてどう思ったか?」と話し合う事も度々あった。「それを聴いて感動したんだったら、皆同じような経験をしてるって事だよね。自分も同じ経験をたくさんして、皆も同じような経験をしてるんだったら、その事を書いたら共感してくれる人もいるかもしれない!」作詞、作曲、アーティストとして、自分らしさ、個性を追求しないといけないと思っていた。独自のカラ ― を持ったアーティストが好きだったが、 10 代の頃は個性を見つけないといけないと思い、人真似をしてもデビューは出来ないだろうとカバーをやる気は全くなかった。
イギリスから帰国後、精力的にバンド活動を行う。両親はバンドの練習で遅くなる事は心配したが、音楽をやる事自体に反対しなかった。また赤坂のライブハウス “ ドリームボート ” によく通い、そこに出入りする大学生のミュージシャン達に「どんな曲が良いか」を頻繁に尋ねた。教えてもらったキャロルキングをカバーもしたが、それよりオリジナル曲を作る事に断然興味があった。(自然に曲は作っていたが、レパートリー数はそれ程多くはなかった。)YAMAHA のオーディションでは R&B ポップスのオリジナルで応募し、中野サンプラザで開催された全国大会に勝ち進んだ経験も持つ。
高校卒業後
クラシックの声楽を断念し POPS の大学へ進みたかったが、残念ながら日本には存在しなかった。そんな時イギリスにポール・マッカートニーが作った学校があると知り、進学を決意。しかし担任は大反対。何故ならバンドしかしていなかったので、英語の勉強が得意ではなく、まずは中 2 レベルから勉強し直し、英会話スクールへも通った。それでも担任から心配され続けるが、「落ちたら浪人」と国内の大学は一切受験をする事はなかった。そして神奈川県で行われたイギリスの学校のオーディションでテストやインタビューを受け、 DIPLOMA 課程に合格。
イギリス生活とオーディション
十代の時は積極的に自分探しをしようと決めていた。イギリスの学校を卒業してから半年間のビザが余っていたので、 14 カ国を巡る旅をし、おまけに 1 人暮らしの部屋で黒人の強盗とやりあった経験まで。そして残りの半年間にイギリスで何をやるかのリストを作り、毎日やる事も全部リストアップして過ごす。大学への編入も考えたが、学校は所詮学ぶ所、早く仕事として音楽をやりたい!と結論を出した。ドイツ人の友人から「日本人なら日本へ帰れば良いじゃない。歌がやりたいのはわかるけど、本当は何がやりたいか自分のハートに聞いてみな!」と言われ大泣きもしたが、これをきっかけに色々と考える事ができた。イギリスにいると自分が日本人だと思い知らされるが、それも自分らしさに入ってる。やっぱり日本でデビューしたい!イギリス人の友人とユニットを組んでリバプールにある、昔 The Beatles がライブした場所で演奏もした。そして卒業した学校へ潜り込み、友人の協力も得てオリジナルのデモ CD を作成。帰国後はソニーのオーディションに応募する予定にしていたが、 3 万数千人のライバルがいると知り、そんな大勢のライバルがいて自分の曲は聞いてもらえるのだろうか?と疑問を持つ。どうせなら目立つようにとイギリスからわざわざエアメールで応募。戦略通り、デモテープ審査合格 20 組の中に入る。作戦を考えるのは大好き。福岡へ帰って来てから合格の通知をもらい、福岡と東京を往復する日々が始まった。
レイラーニと言う名前との出会い
ハワイを旅した時にハワイ人の友人から突然「君の名はレイラーニだ!」と言われる。 ちょうどデビュー前のアーティスト名を探していた時。ハワイ語で「天の花」と言う意味だと知り、レイラーニと決めた。
メジャーデビュー
デビューにあたってのプロデューサーはその昔、尾崎豊さんのプロデューサーをされた須藤晃さん。自分で全曲作詞作曲をしたデビューのオリジナルミニアルバム「ほしのしずく」(コロムビアミュージックエンタテインメント)の制作と同時進行で、尾崎豊さんのトリビュートアルバムに参加が決まっていた。しかし彼女はプロデューサーに、「出来ません。」と断る。新人で断るなんて前代未聞。曲がどうしても理解できなかったのがその理由だった。次に提案された曲は理解ができレコーディング完了。無事発売となる。
してちょうどデビューする頃、決まっていた事務所が親会社に吸収されるタイミングと重なり、発売時はマネージャーもいず、色んな方に協力してもらいながら活動する環境となってしまった。
デビュー後の活動
デビュー後は歌う場所を自分で探し、イベントやライブハウスで手当たり次第歌った。 その後あるレーベル&事務所と出会い、 LOVE FMで2 年間「レイラーニの Welcome to my little cafe 」と言う番組でパーソナリティを務める。そして 1 年半かけて2 枚のアルバム(陰と陽をテーマに同時発売)を作成しインディーズで発売。色んな方の協力を得、ジャケットのデザインや録音場所(宅録から始めた)、ニューヨーク在住のミュージシャンにプロデュースをしてもらったり、エンジニアはフランス人に頼むなどして完成。
周りからの協力
ある時、福岡のライブへいつも来てくれるドイツ人の女性に何気なく話しかけてみた。「私もいつかドイツでライブやりたいから、出来る所があったら教えて!」するとCDを購入していた彼女はプロフィールをドイツ語に翻訳し、CDのコピーも送って、ドイツでの人脈を駆使しライブする環境を開拓してくれた。ドイツのついでにポーランドも遠征し、その時の縁でポーランドとの交流は今も続いている。
充電期間と次のステップ
日本の楽器がやりたくなり、3年間お箏を習う。歌う回数は月一程度に減った。音楽療法の勉強したり、自分の中で勉強期間。女性のアーティスト集団MAJOKAI(ゼロから物が作れる女性の集団)主宰。物語や曲も書き、踊りなども取り入れた1 時間以上の総合的なアートパフォーマンスを 10 人がかりで1 年かけて作った。 プロデューサーの須藤さんとは親子のような繋がりをつかず離れず継続していた。入院した時などに、気にかけてもらった事もある。 2012 年須藤さんの紹介で吉本興業の漫才コンビ、キングコングの西野亮廣さんの脚本による芝居「THE 大航海デイズ」のオファーがあり、いきなり女優デビュー。 1 カ月近くに及んだ東京生活では共演したメンバーが超多忙な為、夜 12 時~朝6 時までの稽古なども頻繁に行われながら本番に挑んだ。その合間に昼間はMAJ OKAI のリハや空いた時間に整体師とコラボしたヒーリング系のワークショップ(インドのハルモ二ウムと言うオルガンを使って、自分の声を出しながら、自分の体を癒していく・・・晃子さんが考案した東洋的ヴォイストレーニング)も同時進行させながら。 ※ 0 ~7 歳児対象の英語で音楽を教えるレッスンも併せ、現在、福岡・東京・神戸・島根等で開催。
芝居と歌は全然違うとやってみて思った。芝居は役柄を演じる。以前は曲を演じては歌えないと思っていたところに、違う角度で芝居と言う表現を体験した事で、「組みとっていく、寄り添っていく、歌も芝居もある。歌う人が演じていくと言う表現もある」と言う答えに至った。そしてどんどん芝居もやりたくなってきた。
新たな出会い
インドネシアで植林事業をしている福岡のある会社の山本社長と出会う。砂漠を森に変えられるマングローブの樹を 1 万7000 本植えた実績がある方。社長の講演会に誘われ、話を聞いていて感動して涙が止まらなくなった。
今まで曲を歌うにあたり、自分で体験していないと正直じゃないと言う考えを持っていた。それが却って狭い世界観になっていた気もする。色んな人に出会い、何かを教えたり、MAJ OKAI を主宰する中で、「その人の中に曲がある」事が段々とわかってきた。個人レッスンの中では、一方的なヴォイストレーニングではなく、参加した方の話を聴きながら一緒にオリジナルソングを作ったりしている。「レッスンを受ける人が自分の声を見つけて、自分らしく自分の歌を歌ってもらいたい。」「全ての人の中に音楽、曲がある。それを形にして残す事が仕事なのではないか?」これが生まれてきた使命なのではないかとさえ思っている。この事がきっかけでようやく人の歌も書きたいと思いだした。
そして植林事業をしている社長の話が彼女には曲に聞こえてきて、「あなたと未来の地球のお話」と言う曲を実際に書き、 2013 年11 月CD発売予定。CDの売上の一部でインドネシアのスラバヤに「マングローブの森」を作る計画にしている。そしてこの 7 月には全貌を知る為に現場を見たいとインドネシアに自ら足を運び、現地でもCD収録曲を録音。その曲に併せた動画プロジェクトも活動中で、「あなたが思い描く未来の地球はどんな地球であって欲しいですか?」と言うテーマの絵を現在募集していて、日本はもちろん世界中から集める計画だ。(現在は完成済)
そしてアーティスト名、中嶋晃子へ
2009 年にアーティスト名をレイラーニから中嶋晃子に。デビュー前は本名に魅力を感じられなかった事もあり使用しなかった。しかし色んな経験を積んでいく中で、中嶋晃子の名前を英語に直訳すると、「 Mountain bird in the center of sunshine child 」だとあらためて確認。「中嶋晃子はなんでもできる!」 1 つの事にこだわらなくても良いんだと思えるようになった。中嶋晃子の名前なら色んなヴァージョンでできるし、よりパフォーマンスも自分らしさが出ると思える。表現の形に拘らなくなってきた。
これから
イギリス留学中も今も各国の友人が大勢いるが、ニュースを賑わす各国間の争いと自分の周りにおきている友好関係とのギャップに違和感をずっと感じてきた。自分が出来る事、それは各国でライブをやったり、各国の現地のミュージシャンと共演をしたりして、音楽を通して世界中を周っていけることだと思う。とは言っても、まずは身近な人の人生の歌をコツコツ残していく事からやって行こうと思う。何人の人の曲を残せるかが楽しみ。これからどんな事ができるのだろう?これから何人の人の歌が作れるのだろう?とアイデアは無限大に広がる。死ぬまでずっと成長していきたい。すべての体験が成長に繋がると思っている。周りの人と共に成長していきたい。
そして常に自分自身が更新されているからライブは毎回全部違う。聴きに来てくださる方はきっと飽きないだろう。場所、楽器、一緒にやる人、感じも違うから
終わりに
感性の赴くままに決断をしながら、優れたバランス感覚で着地点を確実な物にしていく。これが中嶋晃子さんの生き方の軸に見える。「ずっと成長していきたい。」言葉通りの未来を、多くの人に想像させる力を持った女性だ。
文:MARI OKUSU 2013.8.26掲載
中嶋晃子さんの PV
- ポーランドでのライヴ映像 http://www.youtube.com/watch?v=irgJWBu-v_k&list=FLrhLEUJnj94g0ibYC6Yylpw
- ベトナムのウエディングの CM (お琴も自ら演奏の録音) http://www.youtube.com/watch?v=iBBWLVZouno&list=WLRGkQRQMDgWlq66_QZGAjkF71T2Kmri76&feature=mh_lolz
- レイラーニ名の尾崎豊さんカバー曲「群衆の中の猫」 http://www.youtube.com/watch?v=PmK25DLKGpw&list=FLrhLEUJnj94g0ibYC6Yylpw